『やまちち』吉沢緑時/ヤングチャンピオン連載
少女と妖怪の組み合わせっていいなあ。
、というようなことを読んでいてしみじみ思いました。昨年羽生生純先生の『千九人童子ノ件』という漫画にドハマりした自分なのですが、傾向はまるきり違えどこれも「少女」と妖怪に類する異形の「化け物」が登場する物語でした。姿形も常識や文化もまるで逆の存在を並べて描くことにより、「少女」の純真さ・可憐さと「妖怪」の不気味さ・異端さがより一層引き立つともいえます。
この漫画はそうして生まれる「少女」と「妖怪」のデコボコな名コンビ?のギャップと勘違いを笑いにも恐怖にもハートフルにもフルに活かした漫画です。


この作品のタイトル『やまちち』はそのまま、この作品に登場する妖怪の名前です。
…「やまちち」なんて聞いたことないけど、この漫画の創作上の妖怪?と思われるかもしれませんが、それこそが作中のやまちちにとって最大の悩み。自分がマイナー妖怪ということをひどく気にしています。
(ちなみに「山地乳」とは実際に江戸時代の奇談集に描かれていた妖怪だそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9C%B0%E4%B9%B3)


やまちちが棲みつく山奥の村に引っ越してきた中島のどかは友達がいないことを心配かけさせまいと都会で働く母親に隠し続けるぼっち女子小学生。何の因果か、村の人間には誰にも見えなかったやまちちの姿が彼女には見えてしまいます。
自分の姿が見えることを利用し、のどかにネットに書き込ませて検索数を上げ、自分をメジャー妖怪化しようとするやまちちはのどかの機嫌を損ねてはなるまいということで気を遣って「友達作り」に協力します。が、数百年生きる妖怪の割に感性がお下劣なやまちちのアドバイスに従って行動することでのどかと周囲の間には余計な溝が出来てしまい…。


この漫画の基本は「勘違い」「誤解」。ギャグ漫画としては基本ともいえる要素ですね。
やまちちの話す内容は大半が下ネタです。小学生ののどか相手に「パイパン」だの「処女でもこじらせてろ」だの言いたい放題。当然のどかはそれらの単語の意味はわかっていません。「パイパン=パーンとはじける元気なコ?」とか、なんとも可愛らしい発想しかできません。
なので、作中には終始下ネタが登場し続けるのにエロをエロと受け止めないのどかの純真さによってそれが中和されてしまっているのです。この読書感は新鮮。一瞬で下ネタが下ネタである意味を砕かれているのですから。極端に純真というのも、それはそれで超強力なキャラクターとなるものなんですね。


それどころか、他人には見えないやまちちに振り回され、理解していないままに自分も下ネタを放ってしまったりしているせいで周囲の人間にはエキセントリックな少女だと勘違いされているのにのどか自身はそれにまったく気づいていないという。
友達を作りたいという一心で自分が変に見えていないかは人一倍気にするにもかかわらず、根はハイパーピュアなばっかりにますます周囲とはズレる。なのに本人はそれに気づかない。周囲が戦慄したままのまったくハートフルでない着地点でも、のどかのモノローグ一つで強引にでもほのぼのオチみたいに見えてしまう…こんなにも「作品全体の雰囲気」にそぐわない主人公って他にいるだろうかと思ってしまいます。


でも、終始ズレているのにのどかとやまちちは不思議と息の合ったコンビなんです。
いい子であるがゆえに、自分に友達がいないことを母親には打ち明けられない。祖母にも泣いた顔を見せられない。そんなのどかが唯一本音をぶつけられる相手が”やまちちさん”なのです。
2011102323120000
大人の前でいい子であろうとして、同級生の前では萎縮してしまう彼女が毛むくじゃらでヌルヌルの妖怪の前では何故か大笑いして、大泣きして、ふくれっつらができてしまう。そのギャップこそわたしがこの作品に感じた最大の魅力です。ほんとにかわくて、ほんとにいい子なんですよ。のどかちゃん。


残念ながら2巻での完結で、物語のラストは純真かついい子であり続けたのどかのキャラクターが下ネタ&シュールギャグだった作品自体を包み込んでしまったかのようにハートフルで切なくて温かいものでした。
終わってしまったことは残念ですが、最終話+その後の描き下ろしの内容が文句なしに良かったので大満足です。やまちちの下ネタがなかなかキツいことはキツいですし言葉で説明するのが非常に難しい面白さなのですが、個人的には今年読んだ作品ではかなりの高ランクお気に入り作品となりました。