『裁判長!ぼくの弟懲役4年でどうすか』松橋犬輔/コミックゼノン連載
職業柄、知らない漫画の表紙を目にする機会は多く「表紙買い」をすることも少なくはないのですがここまでインパクトの強い表紙は稀でした。
あどけない坊ちゃん刈りの少年が手錠をかけられている絵に、タイトルは『裁判長!ぼくの弟懲役4年でどうすか』。それこそ善悪の判断すらまだつかないような幼い子供の表情に似つかわしくない不穏なタイトルに胸がざわつきます。
この漫画は『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』という裁判傍聴漫画の作画をつとめる漫画家の松橋犬輔先生の実弟が逮捕されたという、それこそ「漫画みたい」と言ってしまいたくなるような実話を基に描かれた作品です。
裁判傍聴漫画を描き続けてきた経験と知識、そして家族が逮捕されて家族が傷つくという哀しみ、怒りの実感が込められた衝撃的な一冊となっています。
松橋先生の実弟・雅也(仮名)が逮捕されたのは2009年の秋。容疑は携帯電話のネットを使って中高生の女性をスカウトし売春クラブなどに斡旋し金銭を得ていたというもの。ニュースで何度も耳にしたような事件です。その当事者が自分の家族だったらと思うと…想像しただけでも血の気が引きます。
わたしたちが読んでいるのは「漫画」ですが、松橋先生にとってはすべて自ら受け止めた「事実」に他なりません。これを絵にすることはどれだけ辛いことだったのだろう…と想像すると些細な部分ですら涙腺に響きます。
たとえば弟の逮捕に動揺する自分。
事の重要さを理解しているのかしていないのかおかしなタイミングで笑い飛ばす編集者。
息子のしたことを受け止められない母親の泣き顔。
自分と弟の幼き日の思い出。
そして自分のしたことの罪を理解していない弟の呆けた表情。
松橋先生は絵がうまい作家さんですが、そのうまさ以上のものが画面から伝わってきます。証人として出廷する実母を意地悪く責め立てる裁判長の表情や言葉が、読んでいて心苦しくなる程厳しいのはただ見てきたままを描いたわけではなく松橋先生ご自身の痛みが筆に込められているから。一つ一つの場面に込められた重みが違う。単なる実録とは違ったジャンルにさえ思えます。
作品に乗せられた哀しみの質こそ違いますが上野顕太郎先生の『さよならもいわずに』を読んだときと似た感覚を抱きました。『さよならもいわずに』は本来ギャグ漫画家であるウエケン先生が漫画的表現、実験的手法を詰め込んでいる作品なので元々実録を描かれている松橋先生の表現とはまったく違いますが、自身の心の傷を漫画にするプロ魂と技術が本物であるという意味では近いものがあると思うのです。
法廷に立つ母親が着るスーツが幼い日に見た参観日のとき着ていたそれである…という現実の記憶、そしてもし自分が新しいスーツを買ってあげようとしたら母親はこう答えただろう…という脳内で描かれた想像も絡めたワンシーンなどは「自分の頭の中でごちゃごちゃになっていた感情」を一歩引いたところでうまく整理して構成されている…という印象です。
哀しみ・怒りがただ前面に出ただけの漫画が読者にとっても良作になるかというと、必ずしもそうではありません。心を打つ描写には成り得るでしょうが、「作品」としては破綻しかねないでしょう。感情任せになりすぎず、冷静な目線で構築されていて、その上で静かに強く感情が込められているからこそこの漫画は素晴らしいのです。
実体験が基になっている以上、結末も都合よく「めでたしめでたし」というわけにはいきません。そして、この事実を漫画にすることで松橋先生が払った代償の大きさも知ることになります。そこまでの覚悟があったからこそ、ここまで読み手の心に届く「作品」として消化出来たのでしょう。凄い漫画でした。
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